うなぎの日常

ぬるりとのびる

ナラティヴセラピーの軽めの実践の場

今日はナラティヴカフェというナラティヴセラピーのイベントに行ってみた。

 

コンセプトとしてはナラティヴセラピーを日常に、という感じらしい。軽めの悩みから面白い話まで気軽に話してみて、それをナラティヴセラピーの構造で聞いてみようというカタチだった。

ナラティヴセラピーの構造とは、話す人と質問をする人、話す人と質問者の話をひたすら聞く人(リフレクティングチーム)に分かれて話を聞くという構造だ。

ここでのキモは質問をする人で、質問をする人はただひたすらにその人の感情やら話を詳細化していく。

はじめてナラティヴセラピーに触れたので詳しいことはよくわからないが、重要なのは「答えは話す人自身が持っていると信じる」ことなんじゃないかと思った。

 

もし質問する人がすでに自分が答えを持っていると思っていても、それは自分の答えであって話す人に合う答えではないのだ。

リフレクティングチームの話も同じで、リフレクティングチームが話す人の話を評価、分析せずにただ共感だけを話すのは、共感の中に自分と合う答えを見つけてもらうためなのだと思う。

とかく人はアドバイスをしがちだけれども、アドバイスが悩んでいる人に届くことは驚くほど少ない。なぜかというと答えはその人の中にあって、外部にはないからだ。

答えは悩んでいる人が、その人自身のプロセスを踏んで見つけないと答えにはならない。

気づいてしまえば当たり前のことなのかもしれないけど、これは実践を通してしかなかなか気づかないことなのかもしれない。

 

そんなことを感じたワークショップだった。

自分の仕事を変えていく

やっぱり営業をして自分がやる仕事をどんどん変えていくのが好きだ。

自分の状況をどんな風にでも変えることができる。もっと楽しい仕事に、もっと収入を増やす、人に紹介できる仕事を取る。

報酬が上がるような仕事は見つけることができたので、次は仕事を楽しい仕事に変えていこうと思う。


チームで組んで仕事をする、新規開発、新しいサービスを作る、人と会って話をし続ける。

今週、来週はそんなことを続けていこうと思う。

生活がすべて

世の中のものは大きく分けて、日常と非日常の二つに分けられると思う。

たとえば、家でのご飯は日常でニューヨークでのブランチは非日常。結婚は日常で恋愛は非日常。ツイッターは日常でインスタは非日常。フェイスブックはビジネスでの非日常がメインかな。

 

非日常はとても魅力的だ。そりゃそうだ、希少なんだから。

恋愛がありふれたもの、運命の人がポンポン見つかるならそこに魅力はなくなる。

なかなか見つからない「ただ一人」が見つかった!この人しかいない!と思うから盛り上がるわけだ。

 

ただ非日常は長いこと続けているといつか必ず日常に変わる。

東京に憧れて出てきた人にとって、東京での生活はしばらくは非日常の連続だろう。

渋谷のスクランブル交差点、新宿都庁、東京タワー。それら非日常が、あるタイミングで非日常モードから日常へとカチッと切り替わる。

そして非日常がつまらないものになったように感じられる。

 

だけど、そもそも生活する中においてそんなに非日常というものは必要なんだろうか?

日常というベースがあるからこそ毎日滞りなく起きたり、仕事したり、遊んだりできるんじゃないだろうか?

祭りができるのは毎日の日常を積み重ねているからだし、その日常なしで毎日祭りをやってると疲弊してしまう。

祭りが終わった後にもどれる日常があるからこそ、思いっきり祭りを楽しめるんだと思う。

 

生活が何より大事なんだ。

生活がすべてを支えている。

やれることをやること

やれることしかやれない。最近ほんとうにこう思う。

やれる自信のないものをやってみるのも大事なことだと思うけど、何かに追われるように義務感としてやり始めると、それは結果的に身につかないものになっちゃうんじゃないかと。

 

自分がやれることを少しずつ拡張していく。これならやれる、これならやれる、ということをトライしてみる。

多少の余裕とアソビを持ってやってみる。そうやって初めて自分の身になっていく。

 

そうやって広げていく方が楽しいし、嬉しい。

それで結果的に、「こんなところまで来たんだ」というところまで来る。

そうやってしか何かを成し遂げらんないんじゃないかと、そんなことを最近考えている。

ぼくらはひとりで生きていく

ひとり、その言葉にイメージするものは人それぞれだろう。

 

ただ大体の人のイメージはこんな感じじゃないだろうか?

孤独、さみしさ、かわいそう、そういうネガティブなもの、それがこの言葉からイメージされる一般的なものだ。

これがウソだとは言わない。こんな面もあるだろう。

 

ただ、ひとり、それはネガティブだけなものなんだろうか?

ちょっと考えてみてほしい。

 

ひとり、それは完全に個として独立しているということだ。

ひとり対多数、その選択ができるということは、ひとりを受け止めきれる個ができているということ。

ひとりで意見をつらぬけること。

それは強さだ。

 

ひとり、それは自由を持っていること。

ひとりでいるということは他者から意見されない、自分で自由に決められるということだ。

優雅にコーヒーを飲みたければスタバでもサンマルクでも自由に行けばいいし、一人で牛丼をかっくらいたかったら吉野家に行けばいい。

君のその決定を止めるひとはだれもいない。

その意思決定はだれにも阻害されない。

それが自由だ。

 

ひとり、それは仲間をつくれること。

いつだって新しい場所での仲間探しは、たいていひとりから始まる。

幼稚園、保育園、小学校...、大学、会社、そのたびにぼくらはひとりを経験して、ひとりで仲間を作ってきた。

そしてそれは自由に選べる。仲間は選べるし、作っても、作らなくてもいい。

それは自分で選択できる喜び、嬉しさだ。

 

実はこんな風にぼくらはひとりの良さ、メリットを享受してきた。

でもみんな、ひとりの良さにあんまり気づいていないんじゃないだろうか。

ぼくとしてはもっとひとりの良さを味わって、噛みしめて、前向きにひとりを楽しめるひとが増えてほしいなと思っている。

 

ぼくらはひとりで生きていく。

それは悲しいことでもなく、ツラいことでもなくて、「強くて、自由で、嬉しい」ことなんだ。

世界はやさしさと愛おしさで出来ている

いつも人との関係性のことについて考えてる。

 

コミュニケーションを気持ちよく進ませるには、相手を尊重し、相手の望むことを進んであげるってのが大事だと思う。まぁ、それがなかなかできないもんなんだけど。

先に不安なんかが立って、頭ん中がグチャってそっちに気が取られてしまったりする。

ただ、それは自分が世界を「不安なもの」だと思っているからなのかもしれない。

 

世界は不安からできていなくて、本当は優しい気持ちと思いで出来ているんじゃないだろうか。

暴走しがちな人とグラグラしている世の中ってのも確かに存在する。

だけども、そんな世界は寂しさやら不安なんかで不安定になっているだけで、本当はその世界のもとには優しさがあるんだと思う。

 

日本語には、そういう弱々しくも優しさをもった人たちを肯定する言葉がある。

「かわいい」だ。何か不安にあてられたときはその不安なものに、この言葉を当ててみる。

それだけで相手を肯定できるし、もっと優しくできるんじゃないだろうか。

褒めることアドバイスすることのリスク

心理学をからめた教育メソッドを見てて気づいたことがあった。

一般的に良いとされていることがダメな対応としてあげられていることだ。

その対応は2つあって、「アドバイスをする」ということと「ほめる」ということだ。

まず一つ目の「アドバイスをする」。これを悪いことだと思っている人はほとんどいないんじゃないだろうか。

僕たちはいろんな場面でこの「アドバイスをする」ということをやる。相手が悩んでいる時、困っている時、はたまた何かの製作に相手が取り組んでいる時。

それはなぜかというと、相手にうまく行く方法でやってほしいし、間違えてほしくないからだ。

ただそれは表面的な理由で、実際の理由は「上段から構えてアドバイスをすることが気持ちいいから」だったりする。

まぁ、それはともかく「アドバイスをする」ということはほとんど機能しないことが多い。

それは「アドバイスする」というのは「干渉する」ということだからだ。

アドバイスされた相手はアドバイスされることにより、「お前は優秀じゃないから私の言うことを聞いていればいい」という裏のメッセージを受け取ってしまう。

たしかに自分自身の経験から言っても、自分から意見を求めた時以外、アドバイスされてまっすぐにその人の言うとおりにやったことは無い。しぶしぶ取り組んでパフォーマンスが出ないことが大半だ。

 

そしてもう一つの「ほめる」ということ。これも叱って育ててきた日本の対比として「ほめて育てる」という言葉で全面的に肯定されている。

しかし「ほめる」ということは評価するということだ。評価される方はいいが、評価されなかった人は「けなされた」、「評価されなかった」という感情を抱えることが多い。

また「ほめられる」ということを目的に行動するということは、他者の評価によって自分の評価を決めるということになってしまう。

そうなると、ほんとうは自分で自分の生き方を決めていいのに、他人の評価で自分の生き方を決めることになってしまう。

というわけで、人を本当の意味で育てるのは難しいなぁ思った。