生活がすべて
世の中のものは大きく分けて、日常と非日常の二つに分けられると思う。
たとえば、家でのご飯は日常でニューヨークでのブランチは非日常。結婚は日常で恋愛は非日常。ツイッターは日常でインスタは非日常。フェイスブックはビジネスでの非日常がメインかな。
非日常はとても魅力的だ。そりゃそうだ、希少なんだから。
恋愛がありふれたもの、運命の人がポンポン見つかるならそこに魅力はなくなる。
なかなか見つからない「ただ一人」が見つかった!この人しかいない!と思うから盛り上がるわけだ。
ただ非日常は長いこと続けているといつか必ず日常に変わる。
東京に憧れて出てきた人にとって、東京での生活はしばらくは非日常の連続だろう。
渋谷のスクランブル交差点、新宿都庁、東京タワー。それら非日常が、あるタイミングで非日常モードから日常へとカチッと切り替わる。
そして非日常がつまらないものになったように感じられる。
だけど、そもそも生活する中においてそんなに非日常というものは必要なんだろうか?
日常というベースがあるからこそ毎日滞りなく起きたり、仕事したり、遊んだりできるんじゃないだろうか?
祭りができるのは毎日の日常を積み重ねているからだし、その日常なしで毎日祭りをやってると疲弊してしまう。
祭りが終わった後にもどれる日常があるからこそ、思いっきり祭りを楽しめるんだと思う。
生活が何より大事なんだ。
生活がすべてを支えている。